社会に要求されるもの、そいつが     
 意図した優しさ ならば、     
 ひとりひとりに必要な物、それは     
 無意識の優しさ ではないかと思う。     
 これはもはや、ひとりよがりな     
 ぼくの願望として。

 その人の持っている
 本当の優しさっていうのは、
 身構えてるときとかじゃなく、
 とっさのときに、無意識のうちに、
 現れてくる、と前に書いた。
 そういう優しさっていうのは、
 やろうと思って、意識して行うのではなく、
 ほんと、
 どうしようもなく、
 いてもたってもいられずに、
 頭とは逆でも 体が反応して、
 見過ごしてはいけずに、
 何かのはずみで、
 ふとしたついでに、
 何のつもりでもなく、
 どうということもなく、
 ついつい、
 とっさに、
 なんとはなしに、
 ・・・
 そんなふうに 現れてくるもの。
 いつでも、どこでも、突然に。

 その時その時に 生みだされてくるわけでなく、
 まさに、何かのひょうしに、一瞬、
 目に見えて現れてくるだけで、
 実体は、常にいつも、その人の中に
 大きく、静かに 存在している。
 そう、常に無意識の状態で。
 それが、ぼくの思う
 無意識の優しさ。
 そんなの求める事自体、
 既に 幻想であったとしても。

 それを持っている人に、
 ぼくは とても 心惹かれる。
 豪華で、綿密な、
 意図した優しさを
 何度も与えてくれる人よりも。

 ぼくは もっと、優しくなりたい。
 意図した優しさばかりを積み重ねている
 つまらない自分から ぬけ出して。 
 大げさなことも、
 かっこいいことも、
 素晴らしいことも、
 目をみはることも、
 何もしないで、
 いつも淡々と、
 時折、にこやかに微笑んでいて、
 何の気なしに、
 特にどうということなく、
 気にもとめずに、
 知らず知らずに、
 人に優しくできる人に。

 そんなのはもはや、
 願望、幻想を 通り越して、 
 妄想にしか 過ぎないのだけど。

 ま、何であっても、
 最初のうちは、
 意識して繰り返さないと
 身に付かないから。
 果たして、そんなものは、
 一歩一歩、少しずつで、
 努力で 身に付くものであるのか、
 とっても、疑問であるのだけれど。

 まずは、そう、
 「意識した」と、いうことで。

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晶

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